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2009年04月 アーカイブ

2009年04月05日

丁半(ちょうはん)

丁半(ちょうはん)とは、サイコロを2つ使用してそれぞれの上面に現れる目の合計が偶数か奇数かを当てるギャンブルのことである。

サイコロを、通常ツボと呼ばれる籠(手で持てるくらいの大きさの籠)に入れてツボを振り、ツボを床に押し当てサイコロを隠し、サイコロの目の合計が偶数なのか奇数なのか予想させ賭けさせる。ツボを振る人(現在のカジノで言うところのディーラーに相当する)のことを、ツボ振りと言う。

サイコロの目の合計が偶数の場合には丁(ちょう)、奇数の場合には半(はん)という。2つのサイコロの合計数字は2( と )から12( と )まであり、偶数および奇数になる確率はそれぞれ50%である

組合せの数を数えると、丁が4/7、半が3/7となり、「丁が有利」という誤解に基づく俗説があるが、確率論的には組み合わせの数ではなく全事象を考えなければならないため、どちらも18/36となり、同じ確率であることがわかる。(同確率であるので、俗説を信じて丁に賭け続けたからといって損をすることは無い。)

数字の言い方には、以下の例のように独特の言い方がある。

と - グニの半
と - ピンゾロの丁(1のことをポルトガル語でピンというところから由来。ピンキリのピンのこと。ゾロとはゾロ目のこと)
と - シソウの半
通常、ツボを振った後で丁か半かを決めてコマ(木札といい、蒲鉾様の板で焼印が押されている。現在のカジノで言うところのチップに相当する)を張る。コマ(木札)はお金の代わりで、1つあたりいくらとレートが決まっている。

サイコロの目の合計を丁と予想する場合には、コマを横に置いて張る。逆に半と予想する場合には、コマを縦において張る。ツボ振りの周りには「丁方ないか半方ないか」、と威勢よく言う人が居り、勝負を煽る。丁半いずれかの賭けているコマが極端に少ない場合、少ない方を「…方ないか」と煽られる。通常は「完全バランス」であり、コマが揃わない(丁半の掛け金が同額でない)場合、通常は多い側のサイドのもっとも多く張っている人が、コマが合うまで掛け金を引っ込める。

なお、うまくいくかどうか分からず、出たとこ勝負でやってみることを「一か八か」というが、この「一」と「八」は、それぞれ「丁」と「半」の上の部分を取って作られたともいわれている。

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2009年04月22日

14世紀のコンスタンディヌーポリ総主教庁の対応

13世紀まではルーシの一体性を崩すことを避けるために効果的な対策を打ってきたコンスタンディヌーポリ総主教庁も、14世紀には政策の一貫性を欠き、ルーシに関する裁定は玉虫色のものとなっていき、場合によってはリトアニアとの妥協も行うことがあった。コンスタンディヌーポリ総主教庁の保護者たるパレオロゴス朝東ローマ帝国がこの時期には完全に衰退しており、皇帝の教会政策に関する意思にもコンスタンディヌーポリ教会自身の意思にも、統一性が欠けていた。ルーシに関して正常な意思決定能力を発揮し一貫性ある政策を行うのは当時の東ローマ帝国と総主教庁には荷が重かったと言えよう。

こうしたコンスタンディヌーポリ総主教庁の態度と事情が、ルーシにおける抗争の様相を複雑化させていく一つの要因ともなった。これはルーシの正教徒達の間にコンスタンディヌーポリ総主教庁の紛争調停能力への疑義を持たせる結果となった。

このような状況下で14世紀末にコンスタンディヌーポリ総主教庁から派遣されてきた府主教キプリヤンは親リトアニアの姿勢を鮮明にし、ルーシ侵略を目論むリトアニア大公国のことは反イスラームの同盟国として扱ったのに対し、ルーシに対しては赤子に対する教師であるかのように振る舞い、政治的抗争に関与するルーシの正教会指導者の過ちを厳しく叱責した。

こうした叱責自体は正論ではあったが、教会にしかもはや統一的指導者と保護者を見出せないルーシの苦悩を顧みずに無神経な叱責を名高いラドネジのセルギイにまで加え、リトアニア大公国との友好的態度をとる府主教キプリヤンの言動は、先述したように今までルーシの紛争調停に無為無策であるどころか時には却ってリトアニアを利する決定を下してきたコンスタンディヌーポリ総主教庁の過去と相俟って、「『帝都コンスタンディヌーポリへの援軍の見返りとしての東西教会合同を推進する』というエゴのためには、コンスタンディヌーポリはルーシをどうとでも扱うのではないか」との印象すらもルーシの正教徒に与え、ルーシにおけるコンスタンディヌーポリ総主教庁の権威と声望を(あくまで相対的にだが)低下させることとなった。

ただし文人としての才能に豊かであった府主教キプリヤンは、教会文化面では多大な貢献をルーシに対して行った。年代記や教会著作の執筆・編纂を行い、祈祷書や教父著作などのギリシャ語文献のスラヴ語翻訳も行っていった。ルーシの正教徒たちも謙虚に旺盛な学習意欲によってよくこれに応え、主に先述の荒野修道院がこうしたビザンティン文化受容の担い手となった。結果、「第二次南スラヴの影響」と総括される、ルーシの正教会の文化活動の隆盛を迎えた。

クリコヴォの戦いと、モスクワ大公国の台頭
1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの戦いでキプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破った。この戦いの前にラドネジのセルギイは大公ドミトリイ・ドンスコイに対して祝福を与えている。一般にはこの1380年を以てルーシは「タタールのくびき」から解放されたとされることが多い。

依然としてキプチャク・ハン国ないしその後継汗国(クリム・ハン国など)の軍事的脅威はその後も15世紀までルーシの諸都市が幾度も略奪に遭っていることからも判る通り持続しており、17世紀末に至るまで軍事的脅威は残存していた。モスクワの人々が「ウラジーミルの生神女」のイコンを用いて祈ったことでティムールの軍がモスクワから退いていったとされる伝承からも、騎馬民族系の諸国家がルーシ諸公にとり依然として脅威であったことが判る。

しかしクリコヴォの戦いが一つのきっかけとはなり、モスクワ大公国が名実ともにルーシの第一人者となっていくこととなる。ただしこの頃のルーシの統合はまだ緩やかなものであった。

フィレンツェ公会議に対する対応
1439年、フィリオクェ問題をはじめとする教義の違いが争点となったものの、フィレンツェ公会議でカトリック教会と、正教会の指導者であるコンスタンディヌーポリ総主教および東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスとの間で、教会の分裂の再統合の合意がなされた。しかし、コンスタンティノープル市民や大貴族(ルカス・ノタラス大公がその筆頭)も含めた東ローマ帝国の正教信者達から東西教会合同決議に対する猛反発が起こり、結局東西教会の合同は実現できなかった。背景には第4回十字軍に決定的となった反西方教会感情があるとみられる。

マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ

この時、ロシア正教信者も同様に猛反発を起こし、ロシア正教会の代表として公会議に出席し、再統合に賛成したギリシャ人のモスクワ府主教イシドール(ギリシャ語名イシドロス。在任1436-1441年)は、モスクワに帰任するとモスクワ大公ヴァシーリー2世によって直ちに捕らえられ、府主教職を解かれて追放された。西方教会諸国から軍事的圧迫を受け続けてきたという点ではビザンツ帝国もルーシも同様だったのであり、反西方教会感情が広く正教会諸国に共有されていた事実が示されている。

イシドールはローマに逃れ、ローマ・カトリック教会の枢機卿に就任した。のちに、実際の管轄は伴っておらずあくまで名誉的・名義上のものであったが、コンスタンティノポリス総大司教・キプロス大司教にも任じられる。

当時の東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅亡寸前にまで追い込まていたために西欧の救援を求めて東西教会の統合を進めたが、当時のモスクワ大公国にとってそのような妥協をする必要はなかったのであり、民衆のレベルだけでなくモスクワ大公という世俗君主までもが実力行使に出るほどにまで、対応がより先鋭的になる事情があったと言えよう。

2009年04月23日

世代交代

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生物の生活環において、異なった生殖を行う二通りの体が交互に出現することをさす。#植物の世代交代、#動物の世代交代を参照。
世代が入れ替わること。人や物を若い、あるいは新しい型に代えること。用例としては経営者の世代交代、携帯電話の世代交代など

世代交代として、最もよく知られているのは、シダ植物のそれであろう。

シダ植物の本体は、核相としては複相、つまり2nである。シダの本体は成熟すれば、その葉の裏に胞子嚢の集まりをつける。胞子嚢の中では減数分裂が行われ、それによって胞子が形成される。したがって胞子の核相はnである。

胞子は単独で発芽し、前葉体となる。前葉体の核相はnで、この前葉体の下面に造卵器と造精器が形成され、そこで造られた卵と精子の受精によって受精卵ができると、それが発芽してシダの本体が造られる。

このように、減数分裂で胞子を作る2nの体と、配偶子を作るnの体がそれぞれ独立に存在する訳である。このように、2つの体が生活環の中に、交互に現れることを世代交代と言う。胞子を作る世代を胞子体、配偶子を作る体を配偶体と言う。

このことを、胞子を作って無性生殖する世代と、配偶子を作って有性生殖をする世代が交代するものと見なし、胞子体を無性世代、配偶体を有性世代と呼ぶこともあった。

その他の植物の世代交代
シダ植物に見られるような世代交代を行うのは、コケ植物・種子植物・褐藻類・緑藻類などの藻類などに見られる。菌類ではツボカビ門のカワリミズカビなどに同様の世代交代を行うものが含まれる。また、有孔虫類もこのような世代交代を行う。動物ではこのような例は知られていなかったが、近年発見された有輪動物門がこのような核相の変化を伴う世代交代を行うことがわかった。

緑藻類のアオサなどシオグサ目では、配偶体と胞子体はほとんど同じ姿である。これを同型世代交代と呼ぶことがある。褐藻類のアミジグサ目やイソガワラ目などもこれにあたる。カワリミズカビの世代交代するものも、世代の違いによる差はほとんどない。

しかし、多くのものでは二つの世代は大きさが異なり、多くの場合に明確な差がある。これを異形世代交代と呼ぶ。シダ植物では胞子体がはるかに大きく、配偶体はごく小さい。このように胞子体が大型になるものは、褐藻類のコンブ目、緑藻類のツユノイトなどに見られる。種子植物はこれの極端なもので、配偶体は雄生のものが花粉(および花粉管)に、雌性のものが胚嚢にまで縮小し、外見上は胞子体のみで生活環を全うしているように見える。種子植物の体が大型で複雑であることを、複相の核を持つことと関連させて考える見方がある。

しかし、コケ植物では逆に配偶体が中心になっている。同様の例には褐藻類のカヤモノリ目や緑藻類のヒトエグサやハネモなどがある。

生活環の中で、栄養を摂取して成長する生活を行う体を栄養体と言うが、世代が2つあっても、一方が極端に小さくて一時的なものである場合にはそれを栄養体とは見なさない場合がある。

動物の世代交代
刺胞動物の生活環が世代交代と呼ばれる場合がある。

例えばミズクラゲなどはクラゲが卵と精子を放出すると、受精卵は発生を進めて楕円形のプラヌラ幼生となる。この幼生は固い底面に定着すると、上側の口の周囲に触手をもつポリプとなる。ポリプは分裂によって無性生殖を行って数を増やす。やがてポリプは多数の皿を重ねたような姿に分裂し、個々の皿がバラバラになって、それぞれがクラゲになる。クラゲは成長すると卵と精子を作る。

このように、幼生であるポリプが無性生殖を行い、親であるクラゲが有性生殖を行うことから、前者を無性世代、後者を有性世代と呼び、この生活環を世代交代であると見なすのである。しかし、この両者は成長段階として連続しているとも見ることができ、その核相はどちらも2nである。したがって、植物などに見られる核相の交代を伴う世代交代とは全く異なる現象である。扁形動物の吸虫類や条虫類も幼生が無性生殖を行うので、同様に世代交代を行うと言われることがある。

ただし、この場合、2つの世代は核相としては同じである。また、2つの世代が本当に別の世代と見なせるかどうかには問題がある。

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