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1815年のナポレオンの没落とウィーン会議の後

1815年のナポレオンの没落とウィーン会議の後、ヨーロッパでは比較的安定した時代が始まった。合衆国の指導者はヨーロッパ貿易に対する注意を払わなくなり、北アメリカにおける発展に重きを置くようになった。米英戦争の停戦により、ミシシッピ川以東のアメリカ・インディアンとイギリスとの同盟が無くなり、白人の開拓者はミシシッピ川を越えて先住民の土地へ入植して行った。1830年代、連邦政府は南東部のインディアン種族を西方の実入りの少ない地域に強制移住させた。
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合衆国政府の公的な法律による西方への拡大によって、西部(ニューイングランドの場合は北部)辺境やさらにその向こうへの開拓者の移動を促した。ダニエル・ブーンはケンタッキーに入植した者のはしりである。アメリカの猟師や罠狩猟者がインディアンと交易し土地を探検するに連れて、西部中に開拓の波が押し寄せた。熟練した戦士や猟師といった山岳人がロッキー山脈に小集団で入ってビーバーを罠で捕らえた。毛皮交易が終焉すると西部には交易所が作られ、インディアンとの交易を続けたり、ユタ、オレゴン、カリフォルニアに向かう開拓者の道案内や猟師を務めた。

アメリカ人は国の境界を越えて北アメリカの特にオレゴン、カリフォルニアおよびテキサスで拡大していく権利について何の疑問も抱かなかった。1840年代の半ばまでに合衆国の拡張主義は「明白な運命」という思想に表されるようになった。

1846年5月、議会はメキシコに対して宣戦布告した。メキシコはアメリカ軍の大砲による攻撃に耐えられず、物資も枯渇し、また指揮系統の分裂によって混乱し敗北した。1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約により、合衆国はリオグランデ川を境界とするテキサスとカリフォルニアおよびニューメキシコを獲得した。それに続く13年間は、メキシコから獲得した領土は、北部と南部の奴隷制度の拡張を巡る党派的緊張関係を左右させるものとして、政争の焦点となっていった。

合衆国の西方への拡張の中での大きな出来事はホームステッド法であった。この法では、開拓者は160エーカー (65 ha)の農場用地を公定価格で買うことができた。他にもオレゴン準州の開拓者への解放、テキサス革命、オレゴン・トレイルの開設、1846年から1847年にかけてのモルモン教徒のユタへの移住、1849年のカリフォルニアでのゴールド・ラッシュ(この時期の移住者を1849年に因みフォーティナイナーズ(Forty-niners,49ers)という)、1859年のコロラドでのゴールド・ラッシュ、1869年5月10日の大陸横断鉄道の開通と続くことになった。

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2009年03月06日 08:50に投稿されたエントリーのページです。

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