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島津 豊久(しまづ とよひさ、元亀3年(1570年)

島津 豊久(しまづ とよひさ、元亀3年(1570年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は島津氏の一族。父は島津家久、母は樺山善久の娘。妻は島津忠長の娘。

父の家久は島津義久や島津義弘の弟に当たり、島津氏が豊臣秀吉に降伏した年に没した。父の後を継いで日向佐土原城(宮崎市佐土原町)の城主となる。豊臣秀吉に従い小田原征伐や朝鮮出兵など各地を転戦。

秀吉死後の1600年に関ケ原の戦いが起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣し、戦いが東軍優位となると義弘が敵中突破による退却を決意したとき、義弘の身代わりとなって戦死する。

永吉島津家
戦後、領地の佐土原は無嗣断絶の扱いでいったん徳川家に接収された後、一族の島津以久が入った。豊久には子供が無く、家は姪の婿が相続した。しかしその系統も寛永元年(1624年)に断絶。後に18代当主・島津家久(豊久の父とは別人、従兄弟の島津忠恒と同一人物)の息子・久雄が継嗣に入り、永吉島津家として残る。

人物
実父・家久を亡くし、孤独を味わっていた豊久は家久の兄・義弘を頼るようになる[要出典]。関ヶ原で義弘に付き従ったのは、自ら駆けつけた者達だけであった。
14歳で参加した、沖田畷の戦いが初陣とされる。この合戦は激戦が予想された為、父・家久は本国へ帰還するように命じたが、「本国にいたとしても、父の苦戦を聞けば駆けつけようものを、陣中にいながらにして撤退したとあっては末代までの恥」と撤退を拒否し、合戦場に留まり、見事初陣で武者1人を討ち取る手柄を挙げたという逸話がある。

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2008年12月12日 11:53に投稿されたエントリーのページです。

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